2004年1月16日 百五十個のさざえ、百円の鮨【再】

 2002年に書いたコラムの再掲です。


 ワールドカップの日本×トルコ戦のあとで美容院に出かけた時のこと。

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 髪を少し短くしたのはいいけれど、定期的に美容院に行かなければいけないのは僕にとってあまり嬉しいことではない。僕は前にも書いたけれど、美容院では緊張するタイプなのだ。有名人と会っても別に緊張しないのになあ。僕ってご存じの通り内向的なんです。

 しかしその時はワールドカップ期間中だったから、美容師がふってきた話題はサッカーだった。うむうむ、なるほど、でもそれはどうかな、と楽しい時間を過ごすことができた。助かるなあ、サッカーの話題をしてくれる美容院だったら毎月でも行くだろうなあ、などと思いながら。

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 髪に鋏を入れてもらった後、ずいぶんと若い青年が僕の頭を流してくれた。顔にタオルを乗せて洗髪台に頭を入れる。洗い方はずいぶんと丁寧でゆったりとしている。頭の後ろの方からふいに「僕もサッカー見ました」と言う声が聞こえた。きっとさっきの会話を聞いていたのだろう。
 日本戦の日はお客さんはひとりも来なかったのだそうだ。だから、僕の髪を切ってくれた店長とお店で見ていたとのこと。「他は見たの?」と聞くと「いえ日本戦だけです」と、照れくさそうな声で返事をした。

 彼はぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。九州の出身であること、福岡の専門学校を出てから上京してまだ二ケ月であること。物価が高くてびっくりしていること、先日一個百円という鮨屋に入ったら一皿が二百円でこわごわ食べたこと(一皿百円だと思ったらしい)、いつかはカウンターで鮨を腹一杯食べてみたいこと。それから、東京は生活のスピードが速すぎて目が回りそうだということ。
「今年は田舎に帰るの?」そう聞くと「ええと、そうですね……」とはっきりしない。洗髪中なので、当然表情は見えない。
「でも去年は帰ったんですよ。その時は弟と素潜りでさざえを百五十個も採ったんです」
「百五十個! そいつはすごい。どうやって食べたの?」
「いえ、近所に分けたんですよ。でも配るのも大変だったんですよ」
 得意そうに弾む声。
「鮑なんかもとれるの?」
「ええ。おおきいのが取れますよ」
 ふうむ。
「海老は?」
「伊勢海老がいます」
 僕が「いいなあ」と羨ましがると、今度帰った時にはお土産に持って帰ってきてくれると言う。気持ちだけもらっておくよ、と僕。こんな風に言われるのは、たとえ実際にはないことであろうとも嬉しいものだ。
「やっぱり今年は帰れないでしょうね」と彼は話す。彼の口から出た落胆の色が、顔に乗っているタオル越しに見えるかのようだ。まあ、生活費も厳しい現状では無理はない。「でも……」と彼が言った。
「このあいだの日本戦はすごかったですよね。興奮しました。なんだか久しぶりに『わあ!』って気持ちになったんです」

――彼が腹一杯になるように鮨を御馳走したらいくらかかるのだろう。一万円あれば足りるだろうか――
 純朴な見習い美容師の柔らかなマッサージを受けながら、真剣にそんなことを考えた六月の昼下がりでした。