2003年5月20日 不愉快という毒薬

 僕は本を読むことが好きだ。最近、勢いは弱まったけど、フリーランスになって最初の三年で読んだ本は新刊・再読を含め三百冊を超えていた。単純計算すると三日に一冊というペース。まあ、恥ずかしながら、あまり仕事がなくて暇だったというのもある。それにしても、ちょっとやりすぎではある。

 ちなみに、僕は雑食なので、読むジャンルも実にばらばら。村上春樹やよしもとばななやジョン・アーヴィングを筆頭に国内外の文学系、宮部みゆきや矢作俊彦(この作家が高校生の頃から一番好き)などのエンターテイメント系、司馬遼太郎や山岡荘八や池波正太郎などの時代小説(サラリーマン時代に通勤電車の中で)、椎名誠や赤瀬川源平のようなエッセイ、以前書評を書いていたのでビジネス書、趣味のサッカー本、童話、絵本などなど、まったく一貫性がない。書店で面白そうな本を見つけたら、すかさず掴んでレジで不愛想に会計を済ましいきおい自宅に持ち帰り、コーヒーを飲みながら冬眠開けの熊みたいにむしゃむしゃと音を立てて読む。その間、ほとんど他のことに手がつかない。僕は実に非生産的な人間なのだ。ああ、可哀想な妻…。

 読む割合で言えば文学系が50%程度で、あとの50%がその他の本になる。ちなみにサッカー関係の本を読む割合は10%に満たない。

---*------*------*------*---

 このように、とりあえずジャンル分けしてみたけれど、文学とエンターテイメントの境って実はわかりにくい。一般的な分類方法も、出自などの極めて制度的なものが多い。芥川賞の候補になれば純文系で、直木賞の候補になればエンタメ系だったりする。例えば、山田詠美は文芸誌で活躍していたりするのに、直木賞をとったのでエンタメ系に分類されていたりして。海外なんかでもアヤシイものが多い。
 まあ、分類方法が気になって、地下鉄がどこから入るのか的(知ってる?)に眠れない訳ではないのだけど、以前、批評家の福田和也が面白い選り分け方を記しているのを見つけたので、以来それを参考にすることにしている。

「エンターテイメントの作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。純文学の作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ読者に自己否定・自己超克をうながす力をもっている」(福田和也著「作家の値うち」)

 上手な表現だよね。

---*------*------*------*---

 まったくもって余談なのだけど、以前、なにかの雑誌で前出の山田詠美がこんなことを言っていた。

「泣かせる物語を書くのは以外と簡単。難しいのは心をほんの少しだけ動かす文章を書くこと」

 うん。本当にそう思う。少しだけ動かせればいいな、っていつも思う。

---*------*------*------*---

 3年前。2000年の夏。35度を越えようかという酷暑の中、取材絡みでJ2の浦和×甲府戦を見た。炎天下の日中、ゴール裏の席取りをするため並んでいる人たちにコメントを聞くのが取材のひとつ。そして、会場の雰囲気を伝えるのがもう一つの取材だった。そんな中で試合を見るわけだから、どうしても取材対象のチームに心情的なバイアスがかかってしまう。よし今日だけは浦和サポーターだ。そんな気持ちで試合を眺めた。

 試合は浦和が圧倒的に支配し3対0で勝利した。しかし帰途につく僕の胸中は晴れやかではなかった。明らかにもっと大差がつくべき試合だったからだ。有効なスペースがあるのに、選手が走りこまない。ゴール前に選手がいるのにクロスがあがらない。確かにひどく暑かった。ピッチはきっとサウナのようだったろう。でも。どうして。
 僕の中にある、なにかどす黒いものが顔を出そうとしている。出口を探している…。

 帰路の電車の中で自問自答していると、試合から合流した妻が肘で僕をつついて言った。
「なんだかすごくこわい顔だよ?」
 にわかレッズサポは、ハッと現実の世界に立ち戻り、苦笑いをしながら、顔をしかめていた理由を説明した。妻はひとしきり説明を聞くと「なるほど」とうなずいた。
「そう言えば、代表が負けた時もこんな風だよね」
 妻はそう一人ごちた。

 確かにそうだ。代表戦で、負けたり、すっきりしない勝ち方をした場合に、自問自答するのはもう何年も続いていることだ。日頃はクールにきびきびとコラムを書いている僕でも(異論はあるかも知れないけれど)、そんな試合の後はなにか憤懣やるかたなくなってしまい、ビールをぐびぐびと飲まざるを得なくなる。
 そう、この感覚は――不愉快――だ。

---*------*------*------*---

 小説は読んでみないと中身がわからない。それと同様に、チームという特定の「作家」の試合内容という「作品」は、試合前に選ぶことはできない。時にはスリルとスペクタクルあふれる試合運びで勝利し、カタルシスを味わわせてくれることもある。しかし、不愉快という三半規管が異常をきたしたような瞑い気持ちを味わう可能性だってたっぷりある。

 このように、チームがどういうジャンルの作品を産むのかさっぱり予想がつかないことを僕たちは知っている。にもかかわらず自ら新作を手に取ろうとするのは、不愉快になっても甘受する意志があるからに他ならない。もう少し穿つと、実は僕たちが不愉快を希求しているとも考えられるのだ。

 福田和也は純文学とエンターテイメント小説の分類についてこうも語っている。

「いわばエンターテイメントが健康的なビタミン剤であるとすれば、純文学は致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である」

 なるほど、サッカーを見るということは、映画「フォレスト・ガンプ」のように、チョコレートの箱を手にしてしまった、ということなのかも知れない。ビタミン剤と毒薬のどちらが入っているかわからない、不条理で麻薬的で人生的なチョコレートの箱を。


My mama always said "Life is like a box of chocolates. you never know what you're gonna get."
ママはいつも言ってた。「人生はチョコレートの箱みたいなものよ。開けて食べてみるまでそれが何味なのかわからない」って。