2003年1月30日 始まりと終わりという幻想

 2000年9月15日に書いた文章です。時期がどうなのかは別として、テーマがちょっと面白かったので。

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 名波が磐田に復帰した。背番号は16。ほとんどのサッカーファンの目が五輪に向いている今、ヴェネチアに移籍したときの大騒動とはうってかわった静かな復帰である。

 問い合わせやオファーはまだあるらしい。しかしヨーロッパはすでにシーズンを開始してしまい、もうじきマーケットもしまる。なので冬の市場再開を待つための暫定的な復帰といった考えのようである。まあ、事実として獲ってくれるところがなかったのだし、元々がレンタルなのだから今回の復帰は不本意であろうけれどもしょうがない。しかし――暫定的か。

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 結果的に言えば、名波の最初の海外挑戦は決して成功ではなかった、ということになるだろう。かといって失敗ということでもない。私たちがどう見ようと、本人にしかわからない大きな経験があったはずだし、それは必ず現在の名波の糧になっているはずである。だからこそ、暫定的という言葉にひっかかる。

 余計な心配な上に老婆心なのだろうけれど、僕が少しだけひっかかることを言うと、本人が、セリエAでの最初の挑戦は終了した、ということをどれだけ自覚しているのだろうか、ということだ――。

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 世界的なアメリカの作家ジョン・アーヴィングの「The World According to Garp」(1978年、邦題「ガープの世界」新潮文庫)の中に面白い言葉がある。

    ガープの表現によれば「人間はなにかを最後までやり、また別のことを始めることによってしか成長しない」ということだ。そのいわゆる「最後」とか「始める」というのがたとえ幻想であるにせよ、である。

 この「たとえ幻想であるにせよ」というのが面白い。
 物理的なルールが決められていたとしても、人間が携わることには最後とか始まりをきちんと規定することはできないし、仮に規定できたとしてもそれは幻なのだ、というのである。そして、それが幻想だということを知り、まやかしだと理解しながらも、終わりと始まりとを自らが設定することによって、初めて何ごとかを土台にして次に進めるというのだ。とても面白い言葉だし、真理でもある。

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 サッカーの試合は主審のホイッスルが始まりと終わりを規定している。しかし、これはルール的な側面だけであり、相手チームの分析や研究は試合の前から行われている。また、試合によっては決定的なダメージを受けた場合、シーズンを通じてその結果がチームに重くのしかかる。それは2部落ちなどというダメージとして、シーズンを越えてしまったりもする。


 特に選手はその影響が顕著に現われる。
 以前、湘南に所属する松原良香に話を聞いた時、アトランタ五輪アジア最終予選のイラク戦でのシュートミスをずっと背負っていた、と言っていた。
――あの時になんであそこに打てなかったのだろう、なんでこっちにかわせなかったのだろう。

 松原にとってのイラク戦は数年経っても終わっていなかったのだ。それが1999年に所属していたスイス1部のデレモンでの最終戦でいい感触でシュートを打てた時に「ああ、これだ」と初めて吹っ切れたと言う。すでに凄まじい時間が過ぎ去っており、イラク戦試合終了のホイッスルが吹かれてから実に4年が過ぎようとしていた。
 そこでようやく松原のイラク戦が終わり、次のステップに進んだのであろう。「今はもうまったく気にならなくなりました」と笑顔で語っていた。成長というのもなかなか厄介なものなのである。

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 名波はヴェネチアでの初戦でフリーキックからクロスバーに当てたボールに想いを残してはいないだろうか? 監督が代わらなければもっと活躍できたはずだ、と振り返ってはいないだろうか? ヴェネチアでのカルチョ初挑戦が終わったことを消化しきれているのだろうか……。

 明日への糧にするためにそこで一度終了にして、次の始まりに歩みを進めていて欲しい。磐田で、代表で、これぞ名波というプレーを続けて欲しい。そうする以外にその次のステップは訪れないのだ。始まりと終わりがいくら幻想なんだとしても。