2003年1月22日 奇跡的な邂逅

 朝のNHKニュースで、ある高校の特集をしていた。
 長野県にある地球環境高校。そう、あの松本育夫さんがサッカー部の監督をしている高校である。地球環境高校は創設されてまだ1年にも満ちていないのに、全国大会への切符を手に入れ、さらには1回戦を突破した。異例の出来事なのだそうだ。

 チームの中心選手は、サッカーエリートとして他の高校に入ったのだけれど、ふとしたキッカケや小さな挫折から、不登校になったり、夜遊びに手を染めたりして、闇に搦めとられていった選手たちだ。壁の裏側に出来た日陰に隠れて、輪郭もおぼつかない明るさの中で遊んでいるうちに、風のたよりが地球環境高校と松本さんのことを教えてくれた。少年たちは、立ち上がった。

 選手たちは、夢があったから厳しい練習に耐えてこれた、という。そして、松本監督のように真剣に向き合ってくれる大人は初めてだった、だからやってこれたのだ、と。
 また、熱血漢の松本監督は「私も今が青春ですよ。こちらが熱くならなければ、誰もついてこない。脱走した選手も帰ってきてくれたし…」と語る。思わずこぼれる涙をカメラは写し出す。

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 これはひとつの回復の物語で、一番のポイントは、苦労した末に勝ち取れるものがあるという人生訓でもなければ、全国大会出場というカタルシスでもない。今まで接点などありえなかった松本さんと少年たちが点と点で出会ってしまった、そのことが全てだ、と僕は思う。それまで少年たちがいた心地よい場所から抜け出すための決意をするきっかけとなったからだ。

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 失意の底――という言葉がある。
 失意というようなものに底などが存在していたらまだ救いがあるのでは、とも思うのだけれど、昔から使われている比喩表現なのだからそれは良しとして。
 要するに、失意の底、奈落の底、などの「底」という暗喩は、その状態が考えつく最悪の状態ということであり、穿てばそれ以上悪くはならないという希望の表れであり、ここから上昇するんだという期待感の表れでもある。

  しかし、この底というべきところは落ちてみると存外気持ちの良いところで、光もなく、暗闇もなく、風もなく、音もなく、輪郭もないけれど、それがゆえにすべてが溶け込んだ官能的な世界だ。回復への方法も、手段としては簡単で、自らドアを開けてそこから出てくればいい。けれども、現世と底の間には、短い幅なのだけれども、身体と精神を痛めつける罠が待っている。
 地上には戻りたい。でも、痛みを伴うのは恐ろしい。生命を落としてしまうような傷ではないし、痛みを伴わない限り抜けだせないのだから、それを引き受ける覚悟は出来ている。それでも自傷を避けたいのはごく普通のことだ。この場所は心地よい。なにより、自分を傷つけるものはいない―。

 そんな状況から、痛みを伴っても抜け出す、という決意を本人に抱かせる、ちょっとしたきっかけが、その時点ではなにも直接的な影響はない存在であった松本さんだった、というわけだ。

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 まさに天からの配剤としか言えないほどの奇跡的な邂逅。そのことによって、少年たちは癒され救われていく。その回復を手伝う松本さんも同様に。こんな小さな偶然が、きっかけというふわふわした存在として、今も世界中にまき散らされている。救いの種のように……。